兵庫県加西市で、毎月第1、第3日曜日の午前10時00分から午後3時00分までの間、
鶉野飛行場跡にできた備蓄倉庫内で、大戦中に鶉野町の組立工場で製造されていた紫電改の原寸大模型を公開しますとのこと。
という情報を知って出かけてまいりました。
ちなみに、私は特に戦闘機に思い入れもなく、
ぐらいのノリです。
なにやら、カッコいいものが見られるかも?という感じでした。
地図です
どんなところ?
実はこの展示の後日、この場所にどうしても再度訪れたくなり、公開日でない日に訪れました。要は、公開日でないときの状態はこんな感じです。
画像から、おわかりいただけますでしょうか?
鶉野飛行場跡というだけあり、滑走路があり、その奥に紫電改の模型が羽を休めている倉庫が写っております。
わかりにくいと思いますので、アップ画像です。
なにが言いたいかというと、倉庫のガラス扉は公開日でないと閉まっているんです。
そして、これが公開日の画像です。
倉庫のガラス扉が開いており、少し中に入ることができます。
その中で公開日は、戦闘機の前で物販が行われたり、ポルコ・ロッソ(紅の豚)を思わせるコスチュームを着た人がいたりで、
ざわざわと賑わっておりました。
肝心の戦闘機、紫電改は倉庫の外にはでておらず、倉庫の中のままです。
仕切りがあるため、触れるぐらいまで近づくことができません。ただ、
実物大の原寸大模型ですからね。
物販コーナーもあるよ
倉庫内には、物販コーナーもありましたよ。
クリアファイルの紫電改は、青空の下、ギャラリーも写っていて、手作り感が伝わって味のあるテイストです。
見所 SNJ
物販コーナーを眺めていると、ある新聞記事が目に入ります。
第2次世界大戦中の米軍や、
戦後に海上自衛隊などで練習機として使われた
「SNJ」(別名T-6)を、
兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡近くで展示する準備が進んでいる。
とあります。
と近くのスタッフの方に尋ねてみます。
歩いていける距離のところに展示してあるとのことでした。
数百メートル進んだところに、「SNJ」(別名T-6)が展示してありましたよ。
この「SNJ」(別名T-6)は、本当に海上自衛隊などで練習機として使われた、本物の飛行機だそうです。
おじいさんの、
じゃなかった、
引退した飛行機ですね。
本物の飛行機なので、迫力は伝わってきました。
練習機とのことですが、なかなかカッコいいですね。
見所2 対空機銃
スタッフの方に、対空機銃を見てきたかい?と尋ねられます。
きくと、対空機銃の模型と機銃座が設置され、戦時中の様子を再現しているとのこと。
戦闘機は空高く戦っているイメージですが、この機銃を眺めていると、急にリアルに戦争が近くに感じられました。もちろん模型ではあるのですが、。
96式25耗対空機銃
この機銃は2005年(平成17年)12月17日、に東映株式会社が製作した
「男たちの大和」に撮影に使用されてあ実物大の模型です。
最近、加西市の鶉野飛行場の戦争遺跡が、多くの方々に知られることになり、
その中でも完全な形をした対空機銃座跡が現在4カ所、(戦争当時5カ所)が、
当時そのままの姿で残されております。
その内の1カ所(鶉野町の奉天池東)にある機銃を有志により清掃、整備しました。
この度、東映太秦撮影所に保管されている模型機銃をお借りし、
装着して当時の飛行場を守る姿を再現し、
設置の状況を見て頂きたいと思います。
96式対空機銃の説明
この機銃は日本海軍が軍艦及び陸上の基地を守るために配置されたが、
主に低空から侵入する飛行機を攻撃するために配備されました。
まぁ確かに本物だと危険ですよね。
見所3 平和記念の碑
一通り見終わったので、それなりに満足して鶉野飛行場跡を後にします。
と思った帰り道、道に迷ってしまい、公道なのか私道なのかよくわからない滑走路に迷いこんでしまいました。
迷いこんでしばらく進むと、なにやら記念碑のような石碑を発見して、
と近づいてみます。
姫路海軍航空隊 鶉野飛行場跡
美しく空に果てたり鶉野の 雲夕焼けて永くたゆとう
と記してあります。
碑文には、まだ続きがあります。
神風特別攻撃隊白鷺隊記
神風特別攻撃隊白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、
この地鶉野飛行場において日夜訓練を重ねた。
隊長 佐藤清大尉以下六十三名は、その保有する艦上攻撃機二十一機をもって、
昭和二十年四月六日より五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃し、
沖縄周辺の米軍艦艇にたいし飛行機もろとも体当り攻撃をくわえ、壮烈な戦死を遂げた。
戦いは遂に国土防衛戦に入り、膨大なる物量を誇る米軍の強襲に、
わが沖縄守備隊の戦力では如何ともしがたく、
菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、
海空による総攻撃が開始されたのである。
姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。
隊員たちは出撃にさいし遥か故郷の愛する家族らに別れを告げ、
再び還ることなき特攻に若き命を捧げ、武人の務めを全うしたのである。
今ここ鶉野の地に碑石を建立し、この史実を永世に伝え、
謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、
併せてそのご加護により永遠の平和の実現を切に願うものである。
もう一度読んで、そっと手を合わせました。
美しく空に果てたり鶉野の 雲夕焼けて永くたゆとう
空を見上げると、白い雲に綺麗な青空があります。
空に残った想いは、悲しいものから、
年月が過ぎて爽やかなものに変わっていると良いな、と感じました。
再度、自然と手を合わせて、ふと横に目をやると、石碑に
平和祈念の碑
と大きく記してありました。
なぜ紫電改?
と根本的な疑問を抱きます。
先の大戦において、航空機の技術はめまぐるしく進歩した。
大戦では航空機による戦いが重要視され、各国が新型戦闘機の開発を急いだ。
水上機を専門とした川西航空機では菊原静男主任設計士たちが
初めて陸上戦闘機である「紫電」を開発し、
零戦をはるかに凌ぐ2000馬力のエンジンを搭載し、
20mm機銃4丁も搭載した。
西宮の鳴尾工場で生産が始まったが、
鳴尾工場だけでは海軍増産命令に対応が出来ず、
昭和17年6月、遊休となっていた日本毛織姫路工場が
航空機生産工場へと用途変更された。
姫路には飛行場がなかったため、
加西の東笠原に組立工場が、鶉野に滑走路が建設された。
姫路工場で生産した紫電は3分割し、
馬車で加西へ運んだ後、再度組み立てられた。
昭和19年秋、川西航空機の設計者たちが
「紫電」の改良型である「紫電改」を誕生させ、
日本海軍は起死回生にかける戦闘機として、増産命令をだした。
姫路工場では昭和20年3月より、
「紫電改」の生産が開始し、
同時期に全長1200㍍の試験飛行用滑走路が完成した。
これが今に残る滑走路跡である。
鶉野組立工場では、終戦までに「紫電」466機、
「紫電改」46機が組み立てられ、
終戦時(昭和20年8月31日時点)には、
「紫電」57機、「紫電改」3機が残っていた。
同年10月16日には、米軍が「紫電」3機を実験のため、
米空母「バーンズ」に搭載して、横須賀からアメリカへ運んだ。
そもそも、紫電改って、ゼロ戦と違うの?
旧日本軍の戦闘機って、総じてゼロ戦のイメージを抱いてしまいます。
ちょっと調べてみますね。
ゼロ戦は、当時としては画期的な戦闘機で、徹底した軽量化を行い、卓越した運動性能を持ち、長大な航続力を持っていました。
つまり、ゼロ戦が登場した当時は最強の戦闘機だったと思います。
ですが、時代が流れるとともに、弱点が露呈していきます。
具体的には、徹底した軽量化を行ったため、機体が弱く、防弾性も低かったので、そのあたりが相手に攻略されていきます。
ゼロ戦が敵機に攻略されるにつれ、戦況も厳しくなってきます。
ゼロ戦の後継機の開発も上手くいかない軍は、違うアプローチの戦闘機の開発に注力します。
それが、紫電改なんですね。
機体体重はゼロ戦よりずっと重く、航続距離も短いのですが、
強力なエンジンと優れた防弾装備、20mm機銃4丁の強武装を持ちます。
ゼロ戦の馬力は1000馬力ですが、紫電改の馬力は倍の2000馬力です。
プロペラもゼロ戦は3枚ですが、紫電改は4枚。
格闘戦能力にもすぐれ、敵機の背後をとるための「自動空戦フラップ」機能も持ちます。
きっと強かったことが推測できます。
ただ、紫電改の投入は戦争末期です。
活躍の場も限られ、その製造も戦況が悪くなるにつれ難しくなります。
そして、終戦を迎えることとなります。
知名度では、やはりゼロ戦に軍配は上がるでしょう。
ただ、紫電改は知れば知るほど、その強さを感じさせる魅力的な機体ですね
最後に青空と紫電改を
鶉野飛行場跡の倉庫で羽を休めている紫電改ですが、
空を見ていると、平和祈念の碑の詩が脳裏をよぎります。
この青空には、我々現代人だけではない、平和を築いてくれた方々の想いもあるように感じました。
おまけ
私はブログの記事を書き始めるときはいつも、
と決意しながら書くのですが、また今回も長くなってしまいました。
このおまけのコーナーもホントは長文だったのですが、
断腸の思いで割愛して、なぞかけで締めたいと思います。
では始めます。
紫電改が空に旅立つ
このブログの記事の締め、
と解きます
オチないでしょう
[…] […]
[…] […]